旧日本海軍連合艦隊旗艦三笠


1894年から1895年の日清戦争で中国に勝利した日本は世界で初めて3流国家という汚名を晴らすことができた。 この後の第1次世界大戦が始まるまで大規模な陸上戦闘を行ったのは日本のみとなった。 日清戦争に勝利した日本は中国からリャオトン半島や旅順などの領土を獲得したが三国干渉によりそれらの領土を返還せざるを得ない状況となった。 その後ひそひそと朝鮮経営をしていた日本だが1901年帝政ロシアによる当方進出が始まり満州の1部を占領した。 これに危機感を覚えた日本政府はロシアとの話し合いを開始、しかし、1903年日本にとって屈辱的な最後通告に対する無回答が示され翌1904年2月4日、日本帝国は正式にロシア帝国に対し国交断絶を宣言した。 そして同年2月9日深夜、公式の宣戦布告の無いまま日本海軍の水雷艇3個隊の内10隻が旅順港で防雷網を降ろしてはいるものの無防備なロシア大型艦を発見。 直ちに攻撃を開始し戦艦「ツェザレウィッチ」、「レトウィザン」および巡洋艦「パルラーダ」を座礁させた。 ここで日本海軍とロシア海軍について述べておこう。 当時のロシア海軍は戦力において日本を圧倒していた、特に首都のサンクトペテルブルクにいるバルチック艦隊は当時世界最強といわれていた。 対し日本海軍は未だ富国強兵を掲げているようなものでそこらの3流海軍と同じようなものであったが日英同盟によりその規模は着々と大きくなっていった。 しかし決定的に日本が優勢だったものが2つある。 それは、練度とこの戦争に対する意識の持ち方である、ロシアにとっては降りかかった火の粉を振り落とすようなものだったが日本にとっては最も崇高な大義名分「祖国防衛」であった。 また訓練に至っては今でも海自で残っている月月火水木金金という猛訓練のことわざ(?)のようなものが残っている。 さて本題に戻ろう。 その後の黄海海戦で日本海軍連合艦隊とロシア極東艦隊は対決したが日本艦隊はロシア艦隊を取り逃がしてしまう・・・。 (ちなみにこのロシア極東艦隊はその後日本陸軍の攻撃により5万人戦死者を出し全滅させ同時に旅順を占領した。)


その後ロシアバルチック艦隊は極東に迫ったが到着する前に旅順は陥落しウラジオストックに向かった。 バルチック艦隊は宗谷海峡を通る航路と最短距離である対馬海峡を通る航路があった。 バルチック艦隊総司令官ロジェストビンスキーはここまでくるためにも多大な時間を要していたためできるだけ早くウラジオスットクに到着できる対馬海峡を通る道を選んだ。

 そしてついに1905年5月27日早朝日本海軍の仮装巡洋艦(擬装哨戒艦)信濃丸から「タタタタ」(敵艦隊発見の暗号電文)が届き東郷平八郎は直ちに全艦艇に出撃を下令、日本海軍連合艦隊は堂々朝鮮半島、鎮海湾を出撃、バルチック艦隊に向け進路をとった。 これに際し東郷は東京の大本営に対し有名な電文「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出航コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレド波高シ。」(海の波が高いという意味とバルチック艦隊を倒すのは難しいという意味の掛詞なんですね(^^);詩人ですね〜) そして13時39分バルチック艦隊旗艦スワロフが三笠を発見、世に言う日本海海戦の始まりである。 だが日本艦隊を発見したロジェストビンスキーは彼らの不可解な行動を見て驚きそして喜んだ。 なんといきなり旋回を開始したのである。 即座にロシア艦隊は砲撃を開始、はじめの3分で三笠は300発近い砲弾にさらされたが幸運にも致命傷は受けなかった。 そして旋回を終えた日本艦隊は先頭の旗艦スワロフに集中砲火を加えた。 先ほどのロシア側の砲撃と違い威力は強く命中率は格段に高かった、日本艦隊は丁字戦法という新しい艦隊行動を行いまず先頭にいるバルチック艦隊の旗艦「スワロフ」に砲火を集中、次々とロシア戦闘艦を沈めて行きついには夜戦となった。 東郷平八郎は戦艦部隊を引き上げさせ駆逐艦部隊による敵残存兵力の掃討に当たらせた。 結果、ロシア艦隊は四散し目標のウラジオストックに到着したのはわずか数隻だけだった。 この戦闘でロシアバルチック艦隊は壊滅、ちなみに日本側の損害は駆逐艦4隻のみだった。 この戦闘を機に日本はアメリカの仲介のもと、講和条約を結びロシアと和解した。 これは事実上の日本の勝利でありこの報は世界へ駆け巡った。 新聞には「戦艦同士の対決が戦争の勝敗を決めた!」とあり、戦艦こそが戦争における最有力兵器であると世界は思った。 そしてこれを機に40年にも及ぶ戦艦建艦競争が幕を開けることになる。確かに日本は勝った。 しかし、東郷自身はこの戦いは薄氷を踏むものであったと言ったという・・・。 この後日本は世界から孤立し始めることになる・・・。




現在も戦艦三笠はレプリカとは言えその勇姿とどめています。 これは私事ですが、戦艦三笠を見に行ったとき日本自体の矛盾に気がつきました、日本には戦争アレルギーのようなものがあるのに戦艦三笠は日本独立の象徴として残されています。 三笠とは勝利した象徴であり、たとえば原爆ドームは敗戦の象徴です。 どちらも戦争の象徴的意味合いなのにその捉え方はかなり違うものがあります。 結局戦争に勝てば戦争に対する気分は悪くないということなのでしょう。 そう考えると日本最後の戦争である太平洋戦争に負けたことはある意味日本のためになったのではないでしょうか。 そしてこれからも私は三笠を愛し戦争を憎み続けたいと思い、終わりの言葉とさせていただきます。m(_ _)m(ローザス)


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記念艦三笠の歴史


日本海海戦の大勝利は、世界史の流れを大きく変えたと言われますが、この偉業を成し遂げた日本民族の誇りと自信を新たにするとともに、その栄光を永く後世に伝えるため、その「シンボル」として、「三笠」は大正15年以来収蔵する多数の記念品とともに、ここ白浜海岸に保存され、多くの人に親しまれてきました。 ロシアとの戦争を覚悟した日本海軍は、鋼鉄戦艦6隻、1等巡洋艦6隻を基幹とする拡張計画を実現した。 6隻の戦艦と巡洋艦のうち4隻は英国製である。 主力艦としての「三笠」は、英国ヴイッカース社バーロー工場で起工され、明治35年竣工した。 明治38年、日本海海戦での大勝利の後、佐世保軍港内で火薬庫が爆発し爆沈した。 その後引き揚げられ現役を続けたが、予備艦として横須賀に係留中の大正12年、関東大震災で大波をかぶり擱座。 軍縮条約が成立した時期でもあり除籍となった。 そして永久保存の運動が持ち上がり、大正15年記念艦となった。      


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